源平合戦の初戦、熊野にて


『平家物語』巻第四「源氏揃(げんじぞろえ)」から一部を現代語訳。

まず新宮の十郎義盛をお呼びになって、八条院の蔵人になさる。行家(ゆきいえ)と改名して、令旨の御使いに東国へと下された。

4月28日に都を発って、近江の国から始めて、美濃・尾張の源氏どもに次第に触れて下りながら、5月10日には伊豆の北條の蛭が小島に着いて、流人の前右兵衛佐殿(※さきのうひょうえのすけ。源頼朝のこと)に令旨を取り出して奉る。「信太三郎先生義憲は兄なので、賜ろう」と言って、信太の浮島へ下る。「木曾冠者義仲は甥なので取らせよう」と言って、中山道へと赴いた。

そのころ、熊野の別当・湛増は、平家重恩の身であったが、どうにかして聞き出したのだろう、「新宮の十郎義盛が高倉の宮(※以仁王)の令旨を賜って、すでに謀叛を起こしたということだ。那智・新宮の者はきっと源氏の味方ををするだろう。湛増は平家の重恩を天のように山のように高く蒙っているので、どうして背き申し上げることができようか。矢をひとつ射かけて、その後に都へ子細を報告申し上げよう」と言って、1000余人が甲冑に身を固め、完全武装して、新宮の港に向かった。

新宮には鳥井の法眼(※第19代熊野別当・行範の子、行全。法眼(ほうげん)とは僧位のひとつ)、高坊の法眼(※行範の子、行快(行全の兄)のことか?)、侍には宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智には執行法眼(※行範の子、範誉。行快・行全の兄)以下、その勢力都合1500余人がときを作り、矢合わせ(※開戦の通告のために両陣営が互いに鏑矢を射合うこと)をして、源氏方では「あそこを射れ」、平家方では「ここを射れ」と声がかかり、矢叫びの声(※矢が命中したときに射手があげる叫び声)は途絶えることなく、鏑矢の鳴り止む暇もなく、3日ほど戦った。

覚えの法眼(※腕に覚えのある法眼の意か)湛増は、家の子・郎等の多くが討たれ、我が身も傷を受け、危うく命拾いをして、泣く泣く本宮へと撤退していった。

平家方の田辺・本宮対源氏方の新宮・那智。
京に先駆けて、熊野の地で源平合戦の戦端が開かれました。

元記事は「平家物語5 以仁王の挙兵:熊野の説話」。