闘雞神社


闘雞神社

闘雞神社

闘雞神社(とうけいじんじゃ)
和歌山県田辺市湊665番地  JR紀伊田辺駅から徒歩約5分

社伝によると允恭天皇8年(423年)創建。
『紀伊続風土記』には、熊野別当18代 湛快(たんかい)のときに熊野三所権現を勧請したと記されています。

古くは田辺の宮、新熊野権現(いまくまのごんげん)田辺の宮などと呼ばれていた闘雞神社でしたが、次に記す故事により、新熊野雞合権現(いまくまのとりあわせごんげん)、新熊野闘雞権現社(いまくまのとうけいごんげんしゃ)などと称されるようになりました。闘雞神社となったのは明治に入ってから。

闘雞神社

闘雞神社

闘雞神社という社名は次のような故事によります。

源平の合戦も大詰めに入ったころ、熊野別当 湛増が平氏に味方するか源氏に味方するかを迷い、占いをたて、神意を問うことにした。その占いとは、社前で赤白の鶏をたたかわせ、赤の鶏を平氏、白の鶏を源氏に見立てて勝ったほうに味方するというものであった。赤白の鶏を相対峙させてみると、赤の鶏は白の鶏を見て逃げだした。これを見て、湛増は源氏に味方することを決めたという。

この故事により闘雞権現という呼び名が生まれました。
湛増は2000余人、200余艘に及ぶ熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣。平氏を壇の浦に沈めたのでした。

湛増弁慶の像

湛増弁慶の像

境内には湛増と弁慶の像があります。
また闘雞神社の社務所には、湛増の鉄烏帽子や鉄扇、弁慶の産湯の釜、源義経の笛などが展示されています。

湛増がどのような姿であったのかはわかりませんが、僧侶なので頭は剃っていたでしょう。

元記事は「闘鶏神社:熊野の観光名所」。

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