湯浅城の攻防


『平家物語』巻第十二「六代被斬(ろくだいきられ)」より一部を現代語訳。

小松殿(※平重盛)の御子、丹後侍従忠房(※たんごのじじゅう ただふさ:平忠房。重盛の六男、維盛の弟。官位は従五位下侍従兼丹後守。そのため「丹後侍従」と呼ばれた)は、屋島の戦さより落ちて行方も知れずいらっしゃったが、紀伊国の住人、湯浅権守宗重(ゆあさのごんのかみむねしげ)を頼んで、湯浅の城にこもられた。

これを聞いて平家に思いをかけていた越中次郎兵衛(えっちゅうのじろうびょうえ)・上総五郎兵衛(かずさのごろうびょうえ)・悪七兵衛(あくしつびょうえ)・飛騨四郎兵衛(ひだしろうびょうえ)以下の兵どもが付き申し上げたとのことが聞こえたので、伊賀伊勢両国の住人らが我も我もと馳せ集まる。

すぐれて強い者どもが数百騎立て籠るとのことが聞こえたので、熊野別当(※湛増)が鎌倉殿(※源頼朝)から仰せをこうむって、2~3ヶ月の間に8度襲いかかって攻め戦う。城の内の兵どもが命を惜しまず防いだので、毎度、味方が追い散らされ、熊野法師が数多く討たれた。

熊野別当は鎌倉殿へ飛脚を奉って、「当国湯浅の合戦のこと、2~3ヶ月の間に8度襲いかかって攻め戦ったが、城の内の兵どもが命を惜しまず防ぐ間、毎度、味方が追い落とされて、敵を征服することができません。近国2、3カ国の兵を給わって攻め落とすべきです」ということを申し上げたところ、鎌倉殿は「そんなことをしたら、国の負担が人の煩いとなるだろう。立て籠る凶徒はきっと海山の盗人であろう。山賊海賊を厳しく取り締まって城の口を固めてまもれ」とおっしゃった。その通りにしたところ、ほんとうに後には人が1人もいなかった。

鎌倉殿は謀に、「小松殿の君達で、1人でも2人でも生き残りなさっている者は、助けてさしあげよ。池の禅尼の使いとして頼朝を流罪になだめられたのは、ひとえにかの内府の芳恩であるので」とおっしゃったので、丹後侍従は六波羅へ出て名乗られた。すぐに関東へ下し申し上げた。

鎌倉殿が対面して「都へお上りください。田舎のほうに思いついたところがあります」といって、騙して上京させ申し上げて、後から追うように人を上らせて勢田の橋の辺で斬ってしまった。

平忠房を中心とした平家の勢力が一掃されたことで、紀伊国内での源平合戦は終焉しました。

元記事は「平家物語14 平忠房、斬られる:熊野の説話」。