湛増の家と間違えて


九条兼実(1149 – 1207)の日記『玉葉』
承安2年8月  1172年 湛増43歳 (文中、湛宗とあるが湛増のことだと思われる)

13日己酉、昨今物忌みである。今日の夜明け方に比叡山の僧50〜60人ばかり祇陀林寺辺に行き、祇陀林寺別当の家を散々に打ち壊して帰ったという話だ。このことの根本は、熊野別当湛快の子、法眼湛宗の従者が比叡山の僧とさる7日に乱行のことがあったということだ。比叡山の僧が1人か2人殺害され、そのことにより公家より湛宗の従者らを召し、検非違使に捕えさせた。その後、比叡山の僧らはなお報復のため、急に家まで行って湛宗を伐ろうとしたが、誤って他人の家を壊した。嗚呼の極みである。このことは大衆は知らない。最も身分の低い僧たちの仕業だということだ。あるいは、このことにより公家より比叡山の僧らが召されて手を下したということだ。