『平家物語』巻第十一「鶏合壇浦合戦」より一部を現代語訳。
熊野別当湛増は、平家につくべきか、源氏につくべきかと言って、田辺の新熊野(※たなべのいまぐまの:現 闘雞神社)で御神楽を奏して権現を祈誓し申し上げる。「白旗(※しらはた:源氏)につけ」との権現の仰せを、なお疑って、白い鶏7羽と赤い鶏7羽を、権現の御前で勝負させる。赤い鶏はひとつも勝たない。みな負けて逃げてしまった。それでは源氏につこうと思い定めた。
一門の者を呼び寄せ、都合その勢2000余人、200余艘の舟に乗りつれて、若王子(※にゃくおうじ:熊野五所王子のひとつ。本地仏は十一面観音)の御正体を船に乗せ申し上げて、旗の横上には、金剛童子をかきたてまつって、壇の浦へ近づいて来るのを見て、源氏も平家もともに拝む。しかしながら源氏の方へついたので、平家は意気消沈した。
源平合戦の初期、治承4年(1180年)には、源氏方の新宮・那智勢対平氏方の田辺・本宮勢が合戦し、京に先駆けて源平合戦の戦端を開いた熊野ですが、その後、熊野三山は融和を図り、元暦元年(1184年)10月、それまで権別当であった熊野別当田辺家の湛増が第21代熊野別当に補任されました。
源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、源氏につくべきか、平氏につくべきかを新熊野十二所権現社(現 闘鶏神社)の社前で紅白の闘鶏を行って神慮を占い、その占いの結果に従い、元暦2年(1185年)、湛増は甲冑を身にまとい、熊野水軍(200余艘、2000余人)を率いて参戦。壇ノ浦に平家を沈め、源氏の勝利に貢献しました。
伝説によると鉄製の烏帽子甲(えぼしかぶと)をかぶって戦いに臨んだといいます。闘鶏神社の社務所には、湛増着用の鉄烏帽子、湛増所持の鉄扇などが展示されています。
元記事は「平家物語11 湛増、壇ノ浦へ:熊野の説話」。